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私自身のログとして
燃えるアーチェリー時代
1988年頃から石川国体(1991年)開催に向けて、県・各開催地・体育協会・各競技団体がいよいよ本格的に始動。
自身も強化選手としてはもちろん、役員としても動き始める。1990年福岡には視察役員として、石川国体では副審判長として競技運営に参加
工事中です 
★ 1990年: 福岡国体視察
 柳田村(現中能登町)でアーチェリー競技が行われることが決まって数年、開催地柳田村・石川県アーチェリー協会も多大な労力をかけて準備・強化・普及を行っていた。石川国体の前年度福岡国体には運営の視察に。
 
新潟県成年女子チームと

愛知県チームのメンバーに後輩の山田君が出場!
   
★ 1991年: 石川国体 副審判長
 強化選手として活動したものの、最終的に副審判長として競技運営計画・審判員の統括にあたった。
 
前日審判会議: 右3人は中央からの役員、審判員の実質Topとしての仕事を任されていた。 

弓具検査場の業務を見守る

石川県少年男子チームと
 
試合開始 :競技中は白い壇の上に審判員・さらに高い壇の上に副審判員とサブチーフ 3人が座る

試合中 全審判員を無線でコントロールする
  

審判台の上から状況を訊く
 
全体の状況を見守る

 
 
審判チームは3つ。待機テントで出番を待つ。

審判員チームの交代
 
 
無事試合終了。笑みがでる

閉会式
  
閉会式で:緑ラインの帽子が審判員チーム
 閉会式が終わり全業務完了!思わず万歳 
 
競技後:審判員団

競技終了後のレセプションで
     
      副審判長ネームプレート
 
 石川国体マスコット「げんき君」のテレフォンカード→
「テレフォンカード」自体がもう死語か、、、、
思い出: 北信越・地元柳田村から集まる審判員30名以上をどのように動かして競技を運営していくかの計画はめちゃくちゃ大変だった。
半年前から、仕事が終わってから毎夜徹夜で運営計画を立てた。もう、そんなことできんな〜。
★日本選手権:: 1984年 福井県
このほか、全日本社会人選手権・ヤマハカップ・北信越選手権・湖南カップ・長野県月例大会、インドア大会、、、、
学生〜社会人の10年間あちこち飛び回ってしんどかったけど、楽しかった。
 
1991年の石川国体を期に競技生活から離れて「普通の生活」に。
       
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